エロゲにおける「学園生活」という時空間の表現および学級を通しての教員主人公と生徒との人間関係

 名作との呼び声高いPOLLTOP『遥かに仰ぎ、麗しの』(以下、『かにしの』)の分校ルートをプレイ中に思ったことをつらつらと。

 まず僕が気になったのは、本作は「学園」という時空間のデザインが不十分である、という点。
 主人公が担任教師、ヒロインが生徒となると、どうしても教師として関わる「学園生活」を期待してしまう。たとえ、プロローグで凰華女学院の特殊性が強調されているとしても、まず「学園生活」のフォーマットはある程度踏襲されるだろうと予想する。まっとうでなくとも「学園モノ」であるだろうな、と僕は期待していたが、アテが外れた。
 そもそも、なにをもって「学園生活」とするかだが、ここではその共有体験を想起させる要素を、「生活習慣によって表現される時間感覚」とする。
 僕が『かにしの』分校ルートに欠落していると感じたのは、生活習慣だ。主人公が朝起きて何をするか、というのは第二話で描写されるが、ただの一度きり。授業や夜にしても同様だ。そして休み時間・昼休み・放課後などの現在時刻に関する記述はその後においても見当たらず、一日の過ごし方がまったくイメージできない。たしかに、朝夕晩は背景で見分けることができる。しかし、現在時刻も分からぬ、授業もせぬ、チャイムも鳴らぬ、となると時間感覚が曖昧になる。人里離れた分校であるという設定があったとしても、まず「学園生活」の部分がないから、特殊な学園、という但し書きも機能せず、そうなれば、主人公が教師であり、その立場から生徒であるヒロインと関係していくという方面の実感も限りなく損なわれる。せめて放課のチャイムの一つでもあれば事情は違ったのだろうが。
 ユーザーが共有している「学校」という体験は、時間に支配されている。始業時間に間に合うように起床し、授業時間分拘束され、放課時刻になって解放される。我々の学生時代の生活時間は、学校によって定められたものが基盤にあったとして間違いはないだろう。
 そして、『かにしの』からはこの学校によって規定される「時間」の感覚がない。ただヒロインとの交流があるだけで、それはすなわち「学校」という時空間*1が十分に表現されていないことを意味する。
 まぁつまり、「これ、学園モノじゃねぇだろ」という指摘ができ、その一点がまず気に食わない*2

 個人的にこの「生活習慣によって表現される時間感覚」および「学園生活の実感」に対し最も有効なアプローチをしていた作品としてHOOKの『Orange Pocket』を挙げたい。かの作品では、日時の表示や一日の開始を目覚めから描くのに加え、学園内において休み時間・昼休み・放課後で毎回行動選択が表示される。そう、毎日毎日、規則的にである。さらにそれが退屈な授業描写によって区切られているから堪らない。ストーリーラインにおいて授業時間は蛇足かもしれないが、「学園生活」を表現する上ではやはりその「退屈な時間」すらも不可欠なものであると僕は考える。我々の学校生活も、そういった退屈な時間が大半を占めていたはずであろう。
 直接登場しないにも関わらず両親の存在を強調する放課後の描写も生活感の表現に貢献しているがそれはまた別の話。


 そして、だ。『かにしの』分校ルートには現状もうひとつ、気に食わない点がある。主人公を教師に据えておきながら、それが十分に表現できていない点だ。
 そりゃぁ主人公が教師、ヒロインが生徒という設定から、そういう恋愛などを期待するだろう。だがまたしても裏切られたわけだ。*3
 ADV*4における主人公の人格は社会生活を軸に据えた生活習慣などによってある程度規定されるべきである、というのは僕の持論である。恋愛物語は主人公とヒロインの(当たり前だが)恋愛が主として扱われる。その中で、お互いの社会的地位や性格というのは非常に重要になってくるはずであり、つまり主人公がどういう人間かを表現するためにも、社会生活はある程度日常として描かれるべきである。まぁこれはあくまで僕の持論なのだが(つまらない反論をかわすのに大事なことなので二回言った)。
 本作ではまったく描かれない。主人公である滝沢司は何らかのトラウマを持っている程度しか、分校共通ルートでは判明しない。正体不明である。どのような生活を送る人間なのか、まったく分からない。几帳面なのかズボラなのか程度も、である。
 そして個人としての人格もそうであるが、教師としての立場もまた表現できない。当然だ。少々逸脱しているとはいえ教師として生徒個人に関わることはあるが、学級経営や講義などの日常業務が描かれていないのだから。
 生徒と教師が恋愛関係になるには、まず個人間で関わる前段階として、生徒と学級、というものがある(はず)。これは1シーンだけ存在したが、あくまで学級における生徒ひとりひとりの立ち位置を提示する目的しかなく、いわば例外的な瞬間に過ぎない。であるから、主人公がどうやって生徒達という集団に関わっているのか、という部分はほとんど見えていないのだ。そしてその第二話の印象も、ほとんどが相沢美綺の外出許可願書に食われているときたものだ。
 そうなれば、恋愛関係になる前の二人とその周囲は描写されない。のっけからヒロインと個人的な関わり*5を持ってしまっており、進展は実感されず、段階を踏んでいないように感じる。
 一言で表現するなら、「主人公が教師の学園モノなら授業とかHRしろや」となるわけだ。


 まとめると、話数によって区切られているとはいえ、世界観や主人公の社会的地位および人格は恋愛において重要なものであるからしっかりと描写するべきであり、そのために日常描写を通して生活習慣を提示すべきだ、という教訓が得られたわけだ。うん。日常は大切。


 ……というのを前日の昼間に書いていたのだが、それに対するツッコミを色々と頂いた。
 曰く、「『かにしの』においては、あれは学院ではない、異空間である」、と。
 そこはある程度同意する。あの学院の特異性はプロローグから共通ルートでさんざ語られ、それを伏線として各キャラのルートで解決するのだろうことは容易に想像できるし、それを狙って意識的に表現されている。
 その意は汲む。汲んだ上でも敢えて、「学園生活」への配慮が足りないと指摘する。
 これは個人的な「異空間のデザイン」に関しての技法ではあるが、その空間の異様さを表現する手段としては「違和感」こそが有効なのでは、と考える。特殊性ばかりを強調するのではなく、普通の状態を描いているはずなのにどこか違和感がある、という感覚が好ましい。「普通を描こうとして出る歪みこそがそれの持つ個性である」という言説には大変に同意する。つまり球技大会などのイベントではなく「凰華学院における普通の学校生活」を描いてほしい、という要望に行き着くわけだ。

 まぁ、まだ攻略途中であるのに随分早まったエントリではあるが、学園モノに対する僕個人のスタンスの表明として上げておくことにする。

*1:時間・空間としての、である。

*2:一般的な批判ではないのでとりあえず個人的感情によるものとしておく。

*3:それに関しては「凰華女学院は普通じゃないから」の反論がありそうなものだが、「学院」としても表現できていない点が問題だと言っているのだ。

*4:この場合、主人公≒プレイヤーとしてデザインされ、主人公の人格が無色透明に近いほど好ましいシミュレーションゲームは除外する。

*5:放課後の温室で邑那らとお茶を飲んでいる等