「バイク嫁」についての雑感
吸血殲鬼ヴェドゴニア―WHITE NIGHT (角川スニーカー文庫)
- 作者: 虚淵玄,種子島貴,山田秀樹
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『ブラスレイター』は、『ヴェドゴニア』で果たせなかった「バイクを嫁にする」という男の浪漫への再チャレンジだったのではないか。
などとpostしておいてなんだが、これは間違いであり、一方で正しくもある。
『ブラスレイター』のジョセフが恋をするとしたら、それはバイクの妖精さんであるエレアに対してであって、ガルムにではない *1 。ガルムで擦りつけオナニーをするにしても、彼の頭にあるのはエレアの艶姿(もちろん人間型だ)であり、ぶっかける先もエレアの立体映像だ。つまるところ、彼は「バイク」に欲情してはいないということだ。
邪道なのだ。
『スクラップド・プリンセス』に例えるなら、ドラグーンそっちのけで対人インターフェースであるゼフィリスとイチャつくということ(というかゼフィリスの存在意義はそれだと思われるのでアレだが)。
機械と人間との道ならぬ恋……ああ、結構。大いに結構。しかし、だ……
見た目が美少女じゃ台無しじゃないか。
そりゃ、コンテンツであるからにはキャラクターのヴィジュアルが重要になり、見目麗しい美少女の方が売れる、という理屈は分かる。
だが、美少女相手なら天使だろうが悪魔だろうが機械だろうが金魚の生まれ変わりだろうが不定形生物だろうが欲情できるのがオタクというもの。当事者が持つ忌避感や背徳感は共有できない……「いいからさっさとファックしろよ」という非難すら出るだろう。
そこで、『吸血殲鬼ヴェドゴニア』における、ヴェドゴニアとデスモドゥスの関係に視点を移そう。
たしかに、ヴェドさんはデスモドゥスに欲情しなかった。あくまで機械、ただの道具として扱った。
しかし、彼はデスモドゥスとのツーリングで絶頂することが可能だろう。デスモドゥスの性能に酔い痴れ、バイク=機械である相棒に惚れ込んでいるのだ。
あくまでも、バイクである、「くん」でも「ちゃん」でもない、デスモドゥスに惚れるのだ。
恋愛感情はなくとも、崇高な信頼関係がそこにあった。
(ネタバレ自重するが)結果的に、ヴェドゴニアはデスモドゥスを乗り捨てる。愛機の最期に涙を流すことなく、振り向くことさえなく、道具として使い潰す。だがそれだけに、
「デスモドゥス……お前は最高のマシンだったぜ」
この感謝を乗せた別離の言葉が味わい深い。
邪な欲望ではないのだ。バイクとして、あくまで「道具」としてのデスモドゥスに愛着を持っていたのだ。
これこそが、「愛機」への情の示し方なのだろう。
美少女に対する恋ではないのだ。あくまでも、物言わぬ機械に対しての、言葉すら必要のない、一方的な想い。
まさに、「〜〜は俺の嫁」である。
……と、一見綺麗にまとめておきながら、また新たに一つの疑問が生じることとなる。
「もし、エレアに立体映像で表現される肉体がなく、彼女がただのAIプログラムであったなら」
こうなると話は別である、エレアというキャラクターの肉体が、ガルムと=で結ばれることとなる *2 *3。
そして、喋るバイクとしてのエレアが誕生する。モンスター・マシン、戦友としての信頼すらエレアに向くこととなるのだ。
そう、僕ともりやん氏(@catfist)が当初想定していた「バイク嫁」の誕生だ。
心は女の子、でも体はバイク……切ない恋心に高鳴るエンジン。
これでようやっと、もりやん氏曰くの、
へと行き着くことができるわけか。